The Hit Song
video installation, 2006, at Traversing Territories Exhibition, Nottingham, UK

この作品は、イギリスと日本の2006年2月第3週のヒット曲をランダムに編集したものを、私を含む三人のパフォーマーが目隠しをした状態でそれぞれが別々にその音声を聞き、聞こえるままを即座に声に出して繰り返すという行為を行って、その様子を映像に記録し、それを3台のモニターを使って配置したインスタレーションです。


ねらい

この作品でもまた別々の「領域」に属する行為が、展示という場において生まれる新たな「領域」の中で関連づけられ、一体のものとして鑑賞者に認知されるということによって露になる「領域」相互の非接続性、同時並列性を扱っている。また「the hit song live」と同様にこの作品でも、作者自身がパフォーマーとして作品上に露出していること、それからパフォーマーの行為が聞こえる音声をただ模倣するだけという受動的なものであるということが一つの重要な要素となっている。ここでも作品における「作者」の決定権と特権化に関するテーマに取り組んでいる。

 

 

My Room Data

Video

 

 

 

Separate Everything
video installation, 2005, at Traversing Territories Exhibition, Tokyo


この作品はイギリスから来た五人の学生にそれぞれビデオカメラを渡して、彼らの展示の設営準備中に私が彼らのもとを何度もランダムに尋ねて、その都度なにか一つ仕事を与えてもらいそれを実行し、その様子を映像に記録してもらう。そうして撮られた5つの映像を並列に並べた5台のプロジェクターで壁面に投影したビデオインスタレーションである。


ねらい

この作品では「無限の自由」の手法を応用した。つまり私が被写体となり行為するということ、撮影者は私の依頼によって撮影行為をさせられるということ(撮影者の受動性)、そして各「領域」を並列的に配置するということであるが、いくつか異なる点としては、私の行為の内容が撮影者から与えられるものであるということ、それからインスタレーションという表現形式であるということがある。

この作品では行為目標を指定してもらったり、撮影されるたびに撮影者に私の顔に絵の具を塗り付けてもらったりすることで、「無限の自由」よりも作者(私)の受動性を強調しようとした。そうすることで〈強いる作者〉と〈強いられる作者〉との作者の主体の分裂を鮮明にすることが出来ると考えた。しかしながらその一方で、この作品がインスタレーションという形態をとったことで(つまり映像作品ではなく)カメラの特権性、その暴力性という要素が見えにくくなっている。そのことで被写体の受動性も低下することとなる。そうした矛盾の発見により、この作品を通してインスタレーション作品では映像作品とは全く異なったカメラの役割が現れることを理解することとなり、以後のパフォーマンス、インスタレーション作品ではカメラの存在ではなく鑑賞者の存在こそが重要な要素であると考えるようになる。映画スタイルで鑑賞する映像作品に比べて鑑賞者が自己の身体を意識するインスタレーション、パフォーマンスという作品形態においては、映像内容はあらかじめ他者の記録として対象化されており、映像に没入するということが起こりにくいために、映像内容と鑑賞者との間に新たに撮影者/カメラという要素を意識させるということが難しいように思う。

 

 

 

Remote Painting
performance, 2005, at Open Campus, Tokyo

この作品は東京と韓国のソウルの会場をインターネットを利用して音声と映像をリアルタイムでやり取りしながら行ったパフォーマンスです。東京の会場で私の顔をカメラで捉えそれをソウルの会場に用意した大きな紙に映し出します。その映し出された顔に韓国の参加者によって線や絵や文字などが書き込まれ、その映像を東京で確認しながら私の顔にペイントし再現して行きます。そしてその描き込まれた顔の映像を再び韓国に送り向うの会場で先ほどの紙の上に投影され実際に描いたものと映像が一致するというものです。


ねらい

この作品でも作者の肉体は受動的なものとして作品上に現れている。また東京とソウルでそれぞれ生まれる「領域」がそれぞれの会場にいる鑑賞者の視点では、あたかも関連し、一体化するかのように認識されるということも一連の作品と同様の試みである。ただこの作品の場合は実際にストリーミング映像を通して互いにインタラクションしているので、そこにも確かに「領域」は生まれているはずである。しかし同時にそれぞれの会場で構成される別々の「領域」はとても強力なものであるために、それぞれの「領域」の分断性は容易に認識できるものとなっている。東京とソウルという距離的に離れた場所であってもインターネットを介して繋がることが出来るのであるが、そうした互いのやり取りを通した接続の感覚とは別の次元において「領域」相互の隔絶性が存在するということ、つまり繋がっているのに繋がっていないということを認識するための試みである。

 

   

 

 

 

 

 

 

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