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形式や内容を創造、表現、伝達することにではなく、形式自体をも含む、制作、表現、発表行為における媒介するもの=メディアそのものを対象とし、そこに意識を向けることによって、作品という状況における作者なるものの存在、その機能、そしてそれが必然的に孕む特権性についての考察を行う。また作品の制作と発表を通して、否定的に立ち現れるものとしての自己をあらためて確認したいと考える。

マクルーハンが「メディア論」で述べているように、「どんなメディアでもその『内容』はつねに別のメディアである」のならば、作品の内容とはメディアが意識されていない状態のことであり、逆にメディアを際限なく、作者の側に後退的に意識化することで内容は限りなく延期されることとなる。このことは実在の作者ですらまた別のメディアでしかないということを意味する。つまりここで、作品を制作する主体はどこにいるのか、誰なのかという問いが意識される。

もちろんこの考えはあまりに図式的過ぎるかもしれないし、実際的ではないと言える。だがこの考えが重要な意味を持つのは、それが作品における作者の自明性、特権性に対する批判となりうるからである。さらに、制作する「わたし」という自己の不確定性、そして自己の自由性/不自由性を制作を通して探るうえで有効であると考えられるからである。

また、こうした思考を制作に反映させる場合に注意すべきことは、理論に忠実であろうとするあまり作品が現実において意味をなさない、自己参照的なものとなる恐れがあるということだが、それを回避するために、作品上に作者の身体を提示することが必要だと考える。これは作品に付随する特権化し隠蔽される作者という要素に併置して逆向きの線を重ね書きすることであり、また作品を現実(生活世界)の関係性へとつなぎ止めることである(と同時に、身体、自己イメージをメディアとして意識することは、後退し続ける自己への意識をも生む)。作品を制作するとは常に閉塞からの脱出であり、現実における意味を生み出すことであると考え、それを実行するために制作をする。

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Japanese