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これまでの作品では主に自立的な”作者”というものに対する違和感、疑いをもって制作をしてきました。それは同様に”美”というものの制度性に対する視線であり(”美”を”現実感”と言い換えてもいいかもしれません)、また”美術”の役割、意味に対する固定的な概念に対する反発でもあります。そこにはあらゆる権力(可視、不可視の)にたいする恐れがあり、自己を束縛、規定、誘導するものの姿を捉えたいという欲求があります。

そして自分が今生きているということに全く関係を持てない”アート”なるものがなぜ存在してしまうのか(しかも正当化され、ある程度の保証を得て)、ということが気がかりないっぽう、そうしたものに反発するのではなく、自分の生にとって意味のあることを作品として”美術”の枠組みを利用しながら存在させていくことを目指してきました。反発はたちどころに制度に回収されてしまうだろうという直観があります。

そうした一連の行為は社会性と自己性のあいだの関係性の交渉的在り方を探って行くということでもありました。つまり、自己とは社会の中でのみ意味を持ちうるということ、そして社会とは自己との関係において捉えるべき事柄であるという考えを踏まえつつ、哲学、又は諸科学のような客観の態度(つまり自分の場所、肉体、あらゆる個体としての制限をエポケーした状態)に立つのではなく、今生きている、制限だらけの、不可能だらけの、不自由だらけの不完全な自己というものの有り様をメディアとして作品を制作し、自己/社会、確か/不確か、決定/非決定、自由/不自由といったものの可能な形態、意味を問い、そして実践してゆくことでした。

既成のあらゆるもっともらしい”意味”によって自己と社会の関係をとらえることの窮屈さ、息苦しさを感じます。必要なことは、有効性、有用性といった観点からものを吟味し、自己を含めた社会を一つの客観的、認識可能な総体、エコシステムと捉える思考によって、なにが視界から排除され、見えないもの、つまり無いものとされてしまうのかということを意識することだと思います。

私にとって作品は常に一つの実現であり、後戻りできない、不可逆的なものとしてあるべきだという考えがあり、それは私自身の自己に対するイメージの変化、また私と周囲との関係性やその意味の変化として確認されます。

作品を制作することは意味の領域における自由をめぐっての絶え間ないだまし合いと、すれ違い、そしてひと時の解放だと考えます。

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Japanese